福生の歴史
武士の時代の福生
熊川神社は明治以前は礼拝大明神と呼ばれた村の鎮守で、その創建は室町時代までさかのぼれます。
出土銭のうち、明の貨幣である永楽通宝が681枚と最も多く、全体の13.4%を占めています。
鎌倉時代に入ると人びとの生活の痕跡が見られるようになります。永昌院や福生院には当時の供養塔である板碑が遺されています。市内で最も古い板碑は、永昌院にある嘉元二年(1304)銘のもので、福生市指定文化財です。また福生は11世紀に武蔵七党と呼ばれる武士集団のうち、西党の平山氏が支配したと伝えられています。福生市域はこの西党の人びとによって開発されたのでしょう。12世紀頃に福生村を支配した平山季重は、保元の乱(1156年)で源義朝に従って活躍した武将でした。
戦国時代にはいると福生市域は八王子城主の北条氏照の支配下となりました。福生市指定文化財の「北條氏照制札」は、福生郷において軍勢の乱暴を禁止するよう命じた市内最古の古文書です。これはこの時代、福生近辺が軍事的な緊張がある不安定な状況だったことを示しています。
平成7年(1995)には、熊川内出地区から5000枚を超える大量の銭貨が出土しました。これを埋蔵したのはこの地域に勢力を持った有力な人物だったのでしょう。戦国時代の政情不安定なこの時期に、備蓄のため埋蔵されたと考えられています。